販売会社のはじまり

『日本人の頭と腕で国産車をつくりたい』。創業者の豊田喜一郎はこの想いで、トヨタ自動車を設立いたしました。それは、財閥でも国策企業でもない愛知県の小さな工場で、『日本の道に、日本人がつくったクルマを走らせたい』という大きな夢の始まりでした。技術力は欧米に比べ何十年も遅れていて、量産したクルマは故障ばかり。それでも、豊田喜一郎の夢に共感した全国の地元資本家がトヨタ車販売に参画され、リスクを負いながらも、フロンティアスピリッツを持って、全国にクルマを届けてきたことが、今日の日本の自動車産業につながっています。

トヨタ販売会社のはじまり

4つのチャネルで、全国津々浦々をカバーするトヨタのディーラーネットワーク。そのルーツは、1936年(昭和11年)7月に発表された日本初の大衆乗用車、トヨダAA型乗用車と共にあります。当時、トヨタは自動車づくりをはじめたばかりの小メーカー。しかし興味深いのは、すでに大メーカーであったプジョーの新型車、モデル402型と偶然にも同じ流線型であったことです。当時の新聞記事から、トヨダAA型乗用車の実力をうかがい知ることができます。「大衆車に似合わぬどっしりした重さ、しかも流線型。運転台も前より、従って座席はゆとりある広さ、梅雨明けの爽風を受けながら、濱沿いの街道をスピーディに走る快感。これなら外車を圧倒するのもさして困難ではなさそうだ。外人技師の指導をうけるではなく、素人の協力で作り上げた第1回の製品としてはまず満点に近い」

このトヨダAA型乗用車を販売するための第一号が日の出モータース株式会社。現在の愛知トヨタ自動車株式会社の前身です。1936年7月・8月の2ヶ月間で名古屋新聞に掲載された 自動車関連の記事及び広告は58件。外国車が圧倒的に優勢だった紙面の中で 7件が日の出モータース(株)が掲載したトヨダAA型乗用車の広告でした。発売記念としてトヨタのマークを公募しているのも注目すべきポイントです。懸賞金は100円。当時としては話題になるのに充分な額でした。そして総応募数は2万1000件にも達したのです。まだキャンペーンという言葉もなかった時代、この販売戦略がいかに画期的であったかは言うまでもありません。

その後、戦争という不遇の時代を乗り越えトヨタはトヨペット・クラウンRS型を完成。シャーシーからすべて日本人の技術者による専用設計された本格的国産乗用車の発売を足がかりに1都道府県1社という、前例のないディーラー網の整備に踏み切ったのです。今日のナンバーワンネットワーク網は先人たちの果敢なチャレンジ精神があったからこそ完成したトヨタの誇るべき財産です。しかしその地位におごることなく現在でも、果敢なチャレンジは続けられています。